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漢点字の散歩(61) 岡田 健嗣 |
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カナ文字は仮名文字(12) 2021年度分として『萬葉集釋注』(伊藤博著、集英社)・全10巻の第10巻の漢点字版を、昨年(2022年)3月に完成し、横浜市の中央図書館に納入し、全10巻を揃えることができました。 また、音訳版の『常用字解』(白川静著、平凡社)を、同6月に完成し、サピエ図書館に納入し、現在自由にダウンロードしていただけるようになっております。 もう1つ、『岩波古語辞典』(岩波書店)の漢点字版も、その完成が極間近となっております。 「万葉集」がどんな本であるか、今回のプロジェクトが完成するまでは、視覚障害者の間には、知る者はいなかったということを、これによって初めて知らされたと言えます。 勿論「万葉集」の存在を知らない者は、日本人であれば探すことが困難なはずです。その限りでは、視覚障害者の間には知る者はいなかったというのは、誠に暴言の誹りを免れないものがあります。しかし、「万葉集」を読んだことがあるかと聞かれれば、視覚障害者の中に「はい」と答えられる者がいるかと言えば、「いない」と答えるしかないはずです。それは言うまでもなく、一般に流通している「万葉集」のテキストが、視覚障害者に読める形で提供されることが、これまでにはなかったことに他なりません。 こういうことを考えながら私は、この拙稿を書き継いで来たのですが、ここでこれまで触れて来た「万葉集」の詩歌文を整理してみたいと思います。 【雄略天皇】 1 籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岡に 菜摘ます子 家告らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ居れ 我れこそば 告らめ 家をも名をも こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち このをかに なつますこ いへのらせ なのらさね そらみつ やまとのくには おしなべて われこそをれ しきなべて われこそをれ われこそば のらめ いえをもなをも 【舒明天皇】 2 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は けぶり立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国 やまとには むらやまあれど とりよろふ あめのかぐやま のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたちたつ うなはらは かまめたちたつ うましくにぞ あきづしま やまとのくに 【磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)】 85 君が行き 日長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ きみがゆき けながくなりぬ やまたづね むかへかゆかむ まちにかまたむ 86 かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 岩根しまきて 死なましものを かくばかり こひつつあらずは たかやまの いはねしまきて しなましものを 87 ありつつも 君をば待たむ うち靡く 我が黒髪に 霜の置くまでに ありつつも きみをばまたむ うちなびく わがくろかみに しものおくまでに 88 秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ あきのたの ほのうへにきらふ あさがすみ いつへのかたに あがこひやまむ 89 居明かして 君をば待たむ * ぬばたまの 我が黒髪に 霜は降るとも ゐあかして きみをばまたむ ぬばたまの わがくろかみに しもはふるとも 90 君が行き 日長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ 〔ここに山たづといふは、今の造木(みやつこぎ)をいふ〕 きみがゆき けながくなりぬ やまたづの むかへをゆかむ まつにはまたじ 【八田皇女(やたのひめみこ)】 484 一日こそ人も待ちよき 長き日を かく待たゆれば 有りかつましじ ひとひこそ ひともまちよき ながきけを かくまたゆれば ありかつましじ 【聖徳太子】 415 家ならば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ いへならば いもがてまかむ くさまくら たびにこやせる このたびとあはれ 【柿本人麻呂】 36 やすみしし 我が大君の きこしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 舟並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激く 滝の宮処は 見れど飽かぬかも やすみしし わがおほきみの きこしめす あめのしたに くにはしも さはにあれども やまかはの きよきかふちと みこころを よしののくにの はなぢらふ あきづののへに みやはしら ふとしきませば ももしきの おほみやひとは ふねなめて あさかはわたる ふなぎほひ ゆふかはわたる このかはの たゆることなく このやまの いやたかしらす みなそそく たきのみやこは みれどあかぬかも 反歌 37 見れど飽かぬ 吉野の川の 常滑の 絶ゆることなく またかへり見む みれどあかぬ よしののかはの とこなめの たゆることなく またかへりみむ 「万葉集」の最初に置かれた1の歌は、雄略天皇の御製とされた御歌です。雄略天皇は第21代の天皇、5世紀後半に即位し、各地の豪族を平定して、強大な勢力を誇った天皇として知られています。「万葉集」の冒頭にこの雄略天皇の御製を置いたというのには、この集の編者の並々ならぬ覚悟と意志が示されているのではないでしょうか。 2に置かれている歌は、舒明天皇の御製とされる御歌です。舒明天皇は、第34代の天皇で、在位は629~641年、7世紀前半の天皇です。 舒明天皇の崩御の後、その皇后が即位して皇極天皇となり、4年後譲位して一旦退位して後に重祚して、斉明天皇として即位されました。このお2人の天皇が、斉明天皇の崩御後に即位された天智天皇、そしてその後に天皇となられた天武天皇のご両親であることを思えば、この舒明天皇は、「万葉集」の時代の皇統の祖と言うべき天皇であられて、3世紀遡った有力な天皇である雄略天皇の次にその御製を置くのが最もふさわしい天皇であると考えられたのも当然と言えるでしょう。 85から90は、磐姫皇后の御歌とされる歌です。磐姫皇后は、仁徳天皇の皇后でしたが、記紀の記述では、大変嫉妬深い女性で、天皇が八田皇女を皇宮に入れようとしていることを知って、山に籠もってしまったというエピソードが語られています。 これらの歌は、難波(八田皇女の許)に出かけて中々帰ってこない夫である仁徳天皇へ、哀訴している歌です。記紀の記述とは、かなり質を異にした歌と言えます。左注によれば、最後の2首は、別の作者の歌であろうとも書かれています。 474は、その恋敵である八田皇女の歌です。八田皇女は、仁徳天皇の異母妹で、当時は母を異にすれば、兄妹でも結婚できたのでした。八田皇女は、磐姫皇后が若くして亡くなられた後、皇宮に入り、皇后となられました。 仁徳天皇は第16代の天皇で、応神天皇の第4皇子です。徳の厚い天皇で、疲弊した民を安んずるために、租税を3年間免除したと言われています。在位は5世紀前半です。 415は、聖徳太子の御歌と言われる歌です。聖徳太子は17条憲法を初めとして、大変事績の多い方です。とともに、大変徳の優れた方としても知られていました。この御歌は、旅人の死を悼んで歌われたものです。太子は、推古天皇の弟君で、天皇にはならぬままこの世を去ったと言われます。推古天皇の御代・6世紀末から7世紀前半に活躍されました。 36と37は、柿本人麻呂の長歌と反歌です。この歌は、持統天皇が吉野に行幸された折りに、それに供奉した人麻呂が作ったものと言われます。人麻呂のデビュー作とも言える作品です。 これらの歌の作者とされている人々を、年代順に並べてみますと、磐姫皇后・八田皇女(仁徳天皇)、雄略天皇、聖徳太子、舒明天皇、柿本人麻呂となります。そして一見して分かることは、雄略天皇の御歌と舒明天皇の御歌の2の歌の後は、見事な形式の短歌と、人麻呂の5・7のリズムの長歌であることです。この「万葉集」の作歌の中心人物である柿本人麻呂は持統朝の宮廷歌人です。そして磐姫皇后・八田皇女と聖徳太子の作とされているこれらの歌は、持統朝の歌人の仮託歌であろうと言うのが有力です。 また、雄略天皇の御歌は、若い女性に名を問う形式の歌で、それによって婚姻を求めるものです。求婚歌と呼ばれます。舒明天皇の御歌は、大和にある天香山に登って、自らが統治している国土を見渡して、「ああ、大和はよい国だ!」と、その感慨を述べたもので、国見歌と呼ばれる歌です。これらの御歌の形式は、古くから伝わるものと考えられて、この2つの御歌も、このお2人の作であるとは考えられておりません。恐らく宮廷の儀式で口誦され唱えられていた歌であろうと言われます。その声に出して唱えられていた歌を、文字に書き留めたのが、お2人の御製歌として、「万葉集」の冒頭に掲げられたものと考えられています。 この集冒頭の2つの歌と、その後の歌との形式上の相違は、どんなところからやって来たのでしょうか。このことが、その後の、現在に至るまでのわが国の文字表記の変遷を、強く規定して来たに違いないと思われます。 「万葉集」の歌の中で最も古い歌は何か、という問いは、誠に難解なもののようです。雄略御製・舒明御製として掲げられた冒頭の2つの御歌に1つのラインを引いて、つまり舒明御製を舒明天皇の没した641年として考えて、そこから「万葉集」の歌歌が編まれた年月までの間に、間違いなく急激な文学としての変化が起こっていたということが言えるはずで、この変化がなければ、文字言語としての「万葉集」はなかったのではないか、誰がこのようなものを編もうと考えたのか、誠に興味を惹かれるところです。 勿論「万葉集」は、大伴家持を中心とした編者が編んだに違いありませんが、その元となった資料は、つまり日本語の歌を文字に書き留めた人は誰で、どのような経緯でそのようなことを試みることになったのか、非常に関心を惹かれるところです。 7世紀前半までの文章は、全て漢文だったと言われます。まとまって残っているものは残念ながらありませんが、エリートである宮廷の官僚は、完璧な漢文を読み書きしていたと言われます。 しかしながら「万葉集」では、歌の部分に限られますが、わが国の言語・日本語が、表記されています。しかも5・7・5・7の韻律の長歌、5・7・5・7・7の韻律の短歌と、間違いなく現在にも通ずる韻律の歌が、作られているのです。これは極めて驚くべきことのように思われてなりません。 もう1つ、漢文しかなかったはずの「万葉集」以前に、これも間違いなく存在したのが漢字の訓読です。一体これはどのようにして出来上がったのか、大きな謎と言わざるを得ません。この訓読に関しては、「万葉集」に至るまでには、何の資料も残っていないというのが、私どもの知り得るところですが、「万葉集」では、その訓読が、しっかりと使いこなされています。それどころか、掛詞や枕詞が縦横に駆使されて、現代人の私どもを揺り動かすような表現が満載されているのです。 言うまでもなく当時にはカナ文字はありませんでした。そんな中で、本当に訓読がどのようになされていたのか、その手がかりはないか、集を見回してみました。 【略体表記の人麻呂歌】 1247 大穴道 少御神 作 妹勢能山 見吉 大汝 少御神の 作らしし 妹背の山を 見らくしよしも 大穴道(おほなむち) 少御神(すくなみかみの) 作(つくらしし) 妹勢能山(いもせのやまを) 見吉(みらくしよしも) 1248 吾妹子 見偲 奥藻 花開在 我告与 我妹子と 見つつ偲はむ 沖つ藻の 花咲きたらば 我れに告げこそ 吾妹子(わぎもこと) 見偲(みつつしのはむ) 奥藻(おきつもの) 花開在(はなさきたらば) 我告与(われにつげこそ) 1249 君為 浮沼池 菱採 我染袖 沾在哉 君がため 浮沼の池の 菱摘むと 我が染めし袖 濡れにけるかも 君為(きみがため) 浮沼池(うきぬのいけの) 菱採(ひしつむと) 我染袖(わがそめしそで) 沾在哉(ぬれにけるかも) 1250 妹為 菅實採 行吾 山路惑 此日暮 妹がため 菅の実摘みに 行きし我れ 山道に惑ひ この日暮しつ 妹為(いもがため) 菅實採(すがのみつみに) 行吾(ゆきしわれ) 山路惑(やまぢにまとひ) 此日暮(このひくらしつ) 以上は柿本人麻呂の略体表記の作です。一見するとほとんど漢詩文のようです。現在ではこれを読み下して、5・7・5・7・7の韻律の短歌として読んでいます。 しかしこれをこのように短歌として読むには、最低2つの条件が必要に思われます。それが漢字の訓読とカナ文字の存在です。 現在では漢文の訓読は、訓点と呼ばれる左側の返り点と、右側のカタカナによる送りがなを付すことで成立しています。更に漢字にひらがなのルビを付ければ、ほぼ日本語文として読み下すことができます。現在ではカナ文字の存在によって、訓読が保障されているからです。 人麻呂の時代はどうだったのでしょうか。 カナ文字が作られる以前に漢字の訓読が成立していた、しかも漢文しかない時代に。多分長い年月をかけて、漢字の訓読が試みられ、そのおおよその枠組みが出来上がっていた、そうして「万葉集」の時代が訪れた、こんな風に考えてよいのか、しかし舒明御製とされるような御歌と、その後の歌との相違を見ると、その変化がどのようにしてもたらされたのか、それを実行した人麻呂やその周辺の歌人が何を目指し、何を成し遂げたのか、興味は尽きません。 |
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