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漢点字の散歩(62)
                    
岡田 健嗣

      カナ文字は仮名文字(13)

 伊藤博先生の『萬葉集釋注』の漢点字訳を終えて、私達視覚障害者も、「万葉集」に触れることができるようになりました。これまでは、「万葉集」という歌集のあることは知っていても、どんなものか、実際に読むことはできませんでした。それが初めて手に取って、読むことができるようになりました。今後はこのような書籍を数多く漢点字訳して、視覚障害者の歌人や研究者への資料の提供が進むことを願って止みません。
 『萬葉集釋注』の漢点字版を製作するに当たって、その困難さを考えました。何と言っても難解な漢字ばかりの原文です。そこでその底本に文庫版(集英社文庫)を選びました。この文庫版の特徴は、全体を簡易な体にするために、原本であるハードカバーにある、「万葉集」の原文を省略して、現在私どもが読んでいる形態の読み下し文だけが収められていることです。しかしながら漢点字版の製作に当たっては、それでも歌の部分だけでも原文を入れたいと考えて、歌の部分は原文も見ることができるように会員にお願いしました。これは大変素晴らしい試みでした。原文と読み下し文を対比しながら読むことができることは、原文を如何にこのように読み下しているかを考えることになります。このことは、私にとっても思いの外重要なことであることを知らされた思いを抱きました。
 前回まで考えて来たことは、私達の先達である万葉人が、何時、どのようにしてカナ文字の必要性に気づき、どのようにそれを案出し、それが現在私どもが使っているカナ文字に繋がって来たかというその発端のところについてでした。もっとも発端とも言えない、ちょっとした手がかりを求めた程度でしかなかったかもしれませんが、カナ文字の必要性に気づき、それを案出し、漢字仮名交じり文という現在行われているわが国の文字表記の基礎を築いたのは、この万葉人に他なりません。それと同時にこの「万葉集」では、外来の文字である漢字をわが国の日本語に読み下すという、ほとんどアクロバットと言ってよい方法である漢字の訓読が縦横に駆使されて表記されていることを、忘れてはなりません。私どもは「漢字」と言えば、音読と訓読という2通りの読みがあるということを、自明と考えがちです。しかし、これは現在行われていることを前提に千数百年を遡って推し量ることを意味します。カナ文字は存在せず、カナ文字があって初めて可能なはずの発音だけを表す方法を持たない中で、外来の文字である漢字に日本語の読みである訓読を与えるということが行われたこの事実を、私達はどのように受け止めるべきなのか、思考の停止を余儀なくされる思いがします。
 漢字の読みと言えば私は、漢点字の活動を続けて参りましたが、読書は、音訳書の聴読にも多くを頼っております。音訳という方法も、かなりの技能を必要とするお仕事です。発声や発音という肉体的な訓練は勿論のこと、もっと大事なこととして、書かれている文字・文章を正しく音声化するという、文字の読みそのものの知識を如何に充実させるかという、当然と言えば当然のことではありますが、資料に当って調べながら正しく読むことを追求することは、並大抵のことではないことと推量します。
 と申すのも、私は漢点字の活動をしておりますせいか、漢字の読みについて、つい観察してしまいます。音訳者の皆様には誠に申し訳ないことですが、つい読みの間違いに気づいてしまうのです。たとえば、癌の話の中に、「ゾウオ」という熟語が出てきました。「ゾウオ」という音の熟語は「憎悪」と理解されます。「悪」という文字の音読に「オ」という読みがあるからです。しかしこの文章は癌の治療について述べられているものですので、「憎」という文字の入り込む余地はありません。そうしますと、「わるくなる」という意味の「増悪」という熟語が想起されます。「増悪」は「ゾウオ」ではなく、「ゾウアク」と読まなければならない熟語です。「悪」に「アク」という音読がありますのと、「わるくなる」という意味であろうことが文脈から想像されますので、「ゾウアク」と読む熟語であろうと想像されました。
 そこで「悪」という文字について調べますと、訓読は、「わるい」と「にくむ」の2つが主な読みで、それを文字の意味として捉えて音読の熟語を見ますと、「わるい」という意味の熟語は「悪疫(アクエキ)」「罪悪(ザイアク)」「険悪(ケンアク)」など、「にくむ」という意味の熟語は「好悪(コウオ)」「嫌悪(ケンオ)」「憎悪(ゾウオ)」などが挙げられます。大体これで、「アク」と読むと「わるい」という意味、「オ」と読むと「にくむ」という意味と理解してよいと結論づけられそうに思われます。
 ところがこれだけでは済みませんでした。「悪寒」は「オカン」と読みますが、「風邪を引いて発熱するなどして、寒気がして身体が震える」という意味となります。「悪心」は、「オシン」と読むと、「心持ちが悪く、吐き気を催す」という意味に、「アクシン」と読むと、「悪い心、悪事を働こうとする心」という意味になります。「オ」の音読は、「にくむ」を意味するばかりでなく、「気持ちが悪い、心持ちが悪い」という意味を表しても用いられるのです。
 さらにもう1つ、ずっと以前に使用された使用法として、平治の乱で敗北した源氏の大将の源義平は、「悪源太(アクゲンタ)」と呼ばれましたし、また、南北時代の南朝の武将である楠木正成は、「悪党(アクトウ)」と呼ばれました。ここで言う「アク」は、「悪事・悪人」の「悪」ではなく、すぐれて豪毅な者という意味として用いられていると言われます。また、漢文訓読では、推量の助動詞「いずくんぞ」と読み下されます。
 もう1つ文字の例を挙げますと、「封」には、「フウ」と「ホウ」という2つの音読があります。「フウ」は呉音、「ホウ」は漢音です。呉音と漢音は音は異なっていても、意味は同一であるというのが一般ですが、この文字に関しては、注意が必要です。
 「封ずる」を「フウずる」と読む場合は、「封印」「封入」「密封」「封じ込める」など、「蓋を閉じる、口を閉ざす、中に閉じ込める」という意味を表します。閉ざされた中に入れて外からは見えないようにする、あるいは中に閉じ込めて外へ出られないようにするという意味となります。この文字の使用法としては、この「フウ」の音読が一般的と思われます。
 しかしこれを「ホウずる」と読みますと、古代の中国において、諸侯に、天子から褒賞として領地を与えることを言います。領地を下賜してその領地を諸侯に統治させることで、諸侯に権限を持たせて、天子は間接的に統治する形となります。このように、当時の国家の統治の仕方は、1人の天子の下に複数の部下(諸侯)がいて、その部下1人1人に領地を与えて統治させて、その部下(諸侯)を天子が束ねる形式を取っていました。そのような制度を「封建制」と言います。「封建的」と言うと、古めかしい、権威主義的という意味として使われますが、天子が国を治める場合のありかたとして、国の各地域を天子に代わって、諸侯に治めさせる制度のことを言います。本来古めかしいとか権威主義とかの意味はありません。序でに言えば、この「封建制」に対立する概念は、秦の始皇帝が敷いた「郡県制」で、極めて強権的な中央集権の制度のことで、決して民主制ではありません。
 このように「封」という文字の音読は、「フウ」と読むか「ホウ」と読むかで、その意味する所が変わって来ますので、音訳者の皆様に置かれましては、特に中国の古い時代をテーマに据えた書籍の音訳に当たっては、注意をお払いいただきたいと存じます。
 以上挙げました2つの例のように、漢字にはどの文字を取ってもその読みや使用法には、一定の幅があり、その間を往還する揺らぎがあるようです。恐らくこのことが、漢字の分かり難さとなって私どもを困惑させるのではないかと思われます。音訳書の聴読から漢字の意味を考えて見ましたが、現在でも漢字の読みと意味にはこれだけの幅があることを思いますと、まだ音だけを表す文字のなかった「万葉集」の時代に、訓読がどのように成立して来たか、想像を巡らせて見たいと思います。
 「訓読は当て字だ」という見解があります。つまり当時の日本語に漢字の音を当てたのが訓読だと言うのですが、当て字とはどういうものでしょうか。『広辞苑』を引いて見ますと、

 《当て字・宛字(あてじ): 漢字のもつ本来の意味にかかわらず、音や訓を借りてあてはめる表記。また、その漢字。「野暮(やぼ)」「芽出度(めでたし)」の類。》

とあります。「当て字」とは、漢字の持つ意味にかかわらずとあります。して見ると訓読は、文字の意味そのものとも言える読みですので、「当て字」ではないと考えるべきかもしれません。古代から現代に至るまで、中国ばかりでなく、朝鮮半島やモンゴルに住む人々とのコミュニケーションに、わが国の人々は筆談を使用して来ました。それは「漢字」という表意文字を、音声言語では叶わないコミュニケーションに、音声による読みではなく、それが表す意味によるコミュニケーションのツールとし得たことを意味します。その訓読が、音声を表す文字のなかった「万葉集」の時代に既に存在したという事実は、驚くほかないのですが、ここをもう1つ想像を逞しくして、「万葉集」が現在の形になって、私どもにも読めるようになったプロセスを、『広辞苑』の記載を通して振り返ってみたいと思います。
 まず「万葉集」についての記載は、

 《万葉集(まんようしゅう): (万世に伝わるべき集、また万(よろずの)葉すなわち歌の集の意とも) 現存最古の歌集。20巻。仁徳天皇皇后の歌といわれるものから淳仁天皇時代の歌(759年)まで約350年間の長歌・短歌・旋頭歌(せどうか)・仏足石歌体歌・連歌合せて約4500首、漢文の詩・書翰なども収録。編集は大伴家持(おおとものやかもち)の手を経たものと考えられる。東歌(あずまうた)・防人歌(さきもりうた)なども含み、豊かな人間性にもとづき現実に即した感動を率直に表し、調子の高い歌が多い。》

とあります。 仁徳天皇の時代とは、その皇后である磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)の御歌を指しています。350年間に作られた歌とありますが、実際は壬申の乱以降からと考えられていますので、100年足らずの間に作られた歌と考えてよいようです。
 しかしその表記は、まだ音だけを表すカナ文字は現れておりませんので、カナ文字のない表記、そして漢字の音・訓を後のカナ文字のように使用した音仮名・訓仮名と呼ばれる漢字が使用されました。そのようにして表記された歌集ですので、それを読める人は非常に少なかったので、平安時代に入って村上天皇の命を受けて、読み下しが試みられました。「古点」と呼ばれます。『広辞苑』の記載には、

 《古点(こてん): (前略) 951年(天暦5)から源順(みなもとのしたごう)ら梨壺(なしつぼ)の5人が「万葉集」につけた訓点。》
 《梨壺の5人: 951年(天暦五)梨壺に置かれた撰和歌所の寄人(よりうど)。すなわち後撰集の撰集と万葉集の付訓に当った、大中臣能宣・清原元輔・源順(したごう)・紀時文・坂上望城(もちき)の5人の称。》

とあります。『後撰集』についても触れれば、

 《後撰和歌集(ごせんわかしゅう): 勅撰和歌集。3代集の第2。20巻。951年(天暦5)大中臣能宣(よしのぶ)・清原元輔・源順(したごう)・紀時文・坂上望城(もちき)(梨壺の5人)が撰進。古今集に採り残された貫之・伊勢以下情趣的な歌が多く、撰者の作品はない。後撰集。》

とあります。『古今和歌集』に次ぐ勅撰和歌集です。その撰者である「梨壺の5人」と呼ばれた5人の学者が、「万葉集」に訓点を付けたと言われます。ここから私どもの読める「万葉集」が誕生したと言っても過言ではありません。
 ここから始まって、時代が下るに従って訓点は以下のように進められました。『広辞苑』には、

 《次点(じてん): (前略) 万葉集訓点の1。古点(後撰集の撰者梨壺の5人の訓点)についで、仙覚が新点を付けるまでの間、すなわち平安中期から鎌倉初期にかけて付けられた訓点。大江佐国(すけくに)・惟宗孝言(これむねのよしとき)・大江匡房(まさふさ)・源国信(くにざね)・源師頼(もろより)・藤原基俊(もととし)・藤原清輔(きよすけ)らが試みたという。》
 《新点(しんてん): 1246年(寛元4)仙覚が古点・次点のなかった万葉集の歌152首に加え、また古点・次点を改めたという訓点。》

とあります。仙覚については、

 《仙覚(せんがく): 鎌倉中期の学僧。常陸の人。権律師。鎌倉の僧坊で万葉集の校訂・注釈に没頭。従来無訓の歌に新点を加え、古点・次点を正すなど、万葉研究史上に1時期を画した。著「万葉集註釈(別称、仙覚抄)」など。(1203~1272以後)》

とあります。
 「万葉集」の原文は全てが漢字で表記されていて、歌の部分以外、題詞と左注は漢文で、また歌は、文字は日本語の配列ではありますが、漢字で表された部分と、漢字音で音を表す部分とからなる表記になっていて、注釈なしでは読み切れないものとなっていました。残念ながら私どもには資料として手に入れることはできませんので、どんなものか知ることが叶いませんが、「訓点」として注釈を付けたのがこの「古点」「次点」「新点」だと記されています。現在私どもが読んでいる「万葉集」は、このようにして読み継がれて、現在では読み下し分として手に取ることができるようになっております。その後も『広辞苑』にも、「万葉集」を冠した研究所・解説書が多数紹介されておりますし、恐らく新しい読みも、多数試みられているものと思われます。
 「万葉集」の表記法の変遷は、まずカナ文字で表記されるべき送りがな・助詞・助動詞を省略して文字に表さない表記(略体表記)が最も初期で、その後に送りがな・助詞・助動詞を表すための音だけを表す漢字(音仮名・訓仮名)の挿入された表記がなされました。略体表記は人麻呂歌の極初期のものに見られて、人麻呂の私的な作品に見られるものです。送りがな・助詞・助動詞を音仮名・訓仮名で表した表記は、持統朝・文武朝の宮廷歌に使用されていて、宮廷歌には、略体表記は使用されないことが分かります。略体表記は、あくまで人麻呂の私的な表記法だったのかもしれません。
 「万葉集」の後半になりますと、漢字の読みも使用されず、また訓仮名も使用されず、音仮名だけの表記の歌も現れて来ます。このような文字が、「万葉仮名」と呼ばれます。
 「万葉集」は8世紀の半ばに成立しますが、その後は勅撰和歌集である『古今和歌集』(914年)まで、まとまった歌集は編まれませんでした。その百数十年の間に、「万葉集」で磨かれた短歌と万葉仮名が、和歌として、またカナ文字として自立して、和歌と文字の形式を確立しました。
 『古今和歌集』以後カナ文字表記中心の時代に入りますが、それに平行して、漢文脈の流れも脈々と続いて、双方がフィードバックして、漢文脈は和漢混淆文に、カナ文字表記の和文脈は、漢字に置き換えられる部分に漢字を当てた表記となりました。そして明治に至って、現在私どもが見る漢字仮名交じり文が成立しました。こうして「万葉集」も、本来の姿とは異なる漢字仮名交じり文として、私達は読むことになりました。
 『萬葉集釋注』を見ながらつくづく思うことは、原文はそのままでは読むことはできませんが、万葉歌を読み下し文だけで読むのでなく、そこに原文を置いて読み返すことによって、読み下し文の味わいも、何か深まるような気がして来ます。
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