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漢点字の散歩(63) 岡田 健嗣 |
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カナ文字は仮名文字(14) これまで靴の上から霜焼けを掻くような手つきで「万葉集」の表記を考えて来ました。と申すのも私は、この日本に視覚障害者として生を受けて、その結果として29歳に至るまで、わが国の表記法である「漢字仮名交じり」法から阻害を受けて来ました。それによって、残念ながらわが国の文学の伝統である和歌や物語に、またわが国の文化に大きな影響を与えてきた中国の文学や思想に触れることができませんでした。そういう情況を打開してくれたのが、私が漢点字を習得したことと、漢点字訳のボランティア活動である本会の活動を始めたことでした。本会は1996年に発足しましたが、漢点字訳書を作るという目的を掲げた活動をしている人も団体もありませんでしたので、私自身手探りの状態で活動を始めたのでした。 そして2021年には、その成果である『萬葉集釋注』(伊藤博著、集英社)の漢点字訳を完成しました。このことは私にとって、初めて古典への手がかりを得たものでした。この稿を起こそうと思い立ったのも、「万葉集」を私なりに読んでみようと思い、少々乱暴ではありますが、試みることにしたのでした。 「万葉集」は、そこに収められた歌々の作者のお名前を年代順に見て参りますと、仁徳天皇の時代である四世紀前半から759年までの、約350年の間に作られた御歌ということができます。仁徳天皇の皇后である磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)、雄略天皇、聖徳太子の作られたとされる御歌を初め、舒明天皇や悲劇の皇子と言われる有間皇子の御歌、その他にも古い時代の方々のお作りになられたとされる御歌が収められております。 しかしながらそれらの御歌の形式や表記を具に見ておりますと、果たしてこの御歌が磐姫皇后作の御歌であろうか、あるいは雄略天皇が手づからの御歌であろうかという疑問が沸々と湧いて参ります。磐姫皇后の御歌は、如何にも韻律の整った、短歌の形式に則った万葉歌と呼ぶにふさわしい御歌です。また、雄略天皇の御歌は、宮中の儀礼で、声に出して唱えられるにふさわしい求婚歌で、その後に紹介される万葉集の長歌や短歌の形式とは、一線を画した形式を呈しています。この雄略天皇の御歌、それに続く舒明天皇の御歌は、その後の長歌・短歌・旋頭歌などとは異なる形式の御歌と申してよい御歌だということができるように見えます。 そのことを角度を変えて申せば、「万葉集」の第三番の御歌以後の御歌は、共通する形式、共通する韻律、共通する文字遣いの元に作られた御歌だということができるのだということが言えるのかもしれないと、私は思っております。 また、「万葉集」を表記するのに用いられている文字は〈漢字〉であることを、私たちは忘れてはならないと思います。「万葉歌」を「和歌」と捉えますと、どうしても私たちが慣れ親しんでいる漢字仮名交じりの表記の歌を思い浮かべます。しかし「万葉集」の歌は、本来漢字だけで表された歌で、それをどのように読むかが、大きな問題であったという過去があります。私たちは既にそれを読み慣わされた読み方で読んでおりますが、ある意味でそれは、「万葉集」の本来の読みではないのかもしれない、という含みを、「万葉集」に向かうときは、心得ておくことが必要なのかもしれません。 また、私たち現代の日本人が〈漢字〉を思うとき、その読みには「音読」と「訓読」があると、当然のように考えます。しかしこれをよく考えてみますと、もともとの〈漢字〉の読みは、中国の音だけだったので、「音読」とか「訓読」とかの区別はありません。「音読」や「訓読」という読みは、飽くまで日本だけの読みだということを銘記しておかなければなりません。そしてこの「万葉集」では、〈漢字〉を「音読」し、また「訓読」して歌にしております。まだ仮名文字が現れる前に、「訓読」が、十分に成立していたと考えなければならないのですが、このことは、誠に大きな謎と思われてなりません。 そこで誠に拙い試みではありますが、「万葉集」に使用されている文字の読みを、1つ1つ現在の読みとして、取り出してみようと思います。 「万葉集」でも、最も古い作と考えられている、柿本人麻呂の略体歌を取り上げてみたいと思います。 一二四七 大穴道 少御神 作 妹勢能山 見吉 (1文字づつ、音読と訓読を書き出します。) 「大」ダイ・おおきい 「穴」ケツ・あな 「道」ドウ・みち 「少」ショウ・すくない・すこし 「御」ゴ・おん・み 「神」シン・かみ 「作」サク・つくる 「妹」マイ・いもうと 「勢」セイ・いきおい 「能」ノウ・よい・あたう 「山」サン・やま 「見」ケン・みる 「吉」キチ・よい 大汝 少御神の 作らしし 妹背の山を 見らくしよしも 「大穴道」、「おほなむち」は大国主命、ここでは現代の訓読で「おお・あな・みち」の文字が当てられています。記・紀では「大己貴」と表記されますが、「大穴道」、読み下しでは「大汝」と表記されています。「少御神」、「すくなみかみ」は現代の訓読も同様です。「作」、「つくらしし」、訓読の「つくる」で、送り仮名と助詞が省略されています。「妹勢能山」、「いも」は訓読、「セ」は音読、「ノ」は音読、「やま」は訓読、読み下しでは、「勢」ではなく「背」が使用されています。そして助詞「の」に、「能」が当てられています。そして助詞の「を」が省略されています。「見吉」、「みらくしよしも」、「見」の訓読「み」、「吉」の訓読「よし」、送り仮名「らくし」と助詞「も」が省略されています。 * ここでは助詞は「妹勢能山(いもせのやま)」の「能」だけが使用されていて、他は全て省略されています。また、「大穴道」と「少御神」、そして「妹勢能山」は固有名詞で、訓仮名と音仮名で表記されていますが、強く漢字の意味に引かれていますし、その意味でも訓読から訓仮名への移行期を思わせます。 一二四八 吾妹子 見偲 奥藻 花開在 我告与 「吾」ゴ・われ 「妹」マイ・いもうと 「子」シ・こ 「見」ケン・みる 「偲」シ・サイ・しのぶ 「奥」オウ・おく 「藻」ソウ・も 「花」カ・はな 「開」カイ・あく・ひらく 「在」ザイ・ある 「我」ガ・われ 「告」コク・つげる・のる 「与」ヨ・あたえる 我妹子と 見つつ偲はむ 沖つ藻の 花咲きたらば 我れに告げこそ 「吾妹子」、「わぎもこ」は、愛しい女性を呼ぶ語です。都に残して来た妻を指すものか、助詞の「と」は省略されています。「見偲」、「みつつしのはむ」、(沖の藻の花の咲くのを)見ながら偲ぼう、「見」と「偲」の二字で表されていて、送り仮名が省略されています。「奥藻」、「おきつもの」は沖の藻、「花開在」、「はなさきたらば」は、花が咲いたら、「我告与」、「われにつげこそ」、私に教えて欲しい、送り仮名・助詞が省略されています。「与」を「こそ」と、恐らく助動詞と読ませています。 * 一人称の代名詞で「われ」と訓読する文字として、「吾」と「我」の二つの文字が使用されています。現代語でもこの二文字の使用され方は異なっていますが、古い時代でも、現代とは違った意味で、異なった使用のされ方をされると言われます。読み下し分では、どちらも「我」が用いられています。また、「奥」の字が「沖」の意味で使用されています。 一二四九 君為 浮沼池 菱採 我染袖 沾在哉 「君」クン・きみ 「為」イ・ため・なす 「浮」フ・うく 「沼」ショウ・ぬま 「池」チ・いけ 「菱」リョウ・ひし 「採」サイ・とる 「我」ガ・われ 「染」セン・そめる 「袖」シュウ・そで 「沾」セン・うるおう 「在」ザイ・ある 「哉」サイ・かな・や 君がため 浮沼の池の 菱摘むと 我が染めし袖 濡れにけるかも 「君為」、「きみがため」、 女性の立場のうたです。あなたのために、助詞「が」が省略されています。「浮沼池」、「うきぬのいけの」、 菱の池の名称です。助詞「の」が省略されています。「菱採」、「ひしつむと」、菱の実を摘もうとして、読み下しでは「採」ではなく「摘」が使用されています。送り仮名・助詞が省略されています。 「我染袖」、「わがそめしそで」、私が染めた着物の袖が、送り仮名・助詞が省略されています。「沾在哉」、「ぬれにけるかも」、ぬれてしまった、読み下しでは、「沾」ではなく「濡」が使用されていて、「在哉」を「けるかも」と助動詞として読んでいます。 一二五〇 妹為 菅實採 行吾 山路惑 此日暮 「妹」マイ・いもうと 「為」イ・ため・なす 「菅」カン・すが・すげ 「實」ジツ・み 「採」サイ・とる 「行」コウ・ギョウ・ゆく・おこなう 「吾」ゴ・われ 「山」サン・やま 「路」ロ・みち・じ 「惑」ワク・まどう 「此」シ・これ・この 「日」ジツ・ニチ・ひ 「暮」ボ・くれる・くらす 妹がため 菅の実摘みに 行きし我れ 山道に惑ひ この日暮しつ 「妹為」、「いもがため」、愛する女性(妻)のために、助詞が省略されています。「菅實採」、「すがのみつみに」、菅の実を摘もうと、読み下しでは「採」ではなく、「摘」が使用されています。また、送り仮名と助詞が省略されています。「行吾」、「ゆきしわれ」、送り仮名と助詞が省略されています。「山路惑」、「やまぢにまとひ」、読み下しでは、「路」ではなく「道」が使用されていて、送り仮名が省略されています。「此日暮」、「このひくらしつ」、道に迷って夜通し山の中を彷徨った。送り仮名が省略されています。 * 一二四九番と一二五〇番の歌は、前者は女性が男性のために菱の実を摘もうとし、後者は男性が女性のために菅の実を摘もうとする、前者は池で、後者は山で、というように、歌と歌とが対応した配置になっています。前者の女性が後者の妻、後者の男性が前者の夫であるという可能性は極めて低いと考えられますが、歌の配置は、相互に互いを思いやっているという形状をなしています。 以上の歌は「人麻呂歌集」から取られたとされる、柿本人麻呂の作である可能性が高いと考えられる歌です。あるいは人麻呂が集めた歌を、人麻呂が書き写して保管していた歌とも考えられていますが、その歌に人麻呂が補筆して、新たな形の歌としたとも考えられています。何れにせよ、柿本人麻呂の最初期の作品と考えてよいと考えられます。 私の拙い試みとして、歌の漢字に音読・訓読の読みを当ててみました。このような試みはさほど珍しくないものかと思っておりましたし、多分その通りなのでしょうが、私にとってその結果は、極めて意外なものでした。 私の予想では、これまで読んで来た万葉集の歌々には、現在の訓読とはかなり相違した読みが与えられていたように感じていましたので、ここに取り上げた四首の歌も、同様にかなり異なった訓読がなされているものと思っておりました。もっとも、そのように思っておりましたのも、それらの歌の読みに、読み下しも含めて、非常に苦労させられたという経験が関与しているのかもしれませんし、またここに取り上げた四首の歌に用いられている漢字が、偶々現在の訓読と同様に読まれているということなのかもしれません。とは申しても、わが国の文字の表記の最初期の「万葉集」に用いられている漢字の読みが、千数百年を経た後の現代の文字と、同じように読むことができるということは、驚きを持って見られるべきと思われてなりません。 しかしここに、面白いことに気づかされました。固有名である「大穴道」は「おほあなむち」→「おほなむち」、「少御神」は「すくなみかみ」、「妹勢能山」は「いもせのやま」、「浮沼池」は「うきぬのいけ」、そして固有名ではありませんが、「吾妹子」は「わぎもこ」と、訓仮名(勢と能は音仮名ですが)が当てられていて、1つの韻律をなしているように思われることです。この韻律は、これよりもずっと以前の日本語と、現代の日本語とを結ぶ架け橋になるもののように思われます。そしてこの固有名に訓仮名が当てられていることで、訓仮名が訓読の成立なしには叶わないものとしてみれば、訓読と訓仮名がフィードバックすることで、万葉の世が明けることになったのではないか、何かそういう筋道が描けるように思われて来るのでした。 何れにせよはっきりとしていることは、わが国の文字表記の最初期に位置するこの「万葉集」は、既に音読・訓読ばかりでなく、係り結びや枕詞など、極めて高度な言語表現によって形作られております。言い換えれば、わが国の先人は、まだ文字表記を実現する以前に、このような高度なポテンシャルを手にしていたのだと言うことができます。 何も文献のないころに、いきなり「万葉集」のような高度な文学作品群が生まれるなどということが、実際に起こりました。実際それ以前には、文献と言える文献は残っておりません。「万葉集」の記事から言えることは、「人麻呂歌集」のようなものは、作られていたらしいことは知られます。人麻呂の作った歌、人麻呂が集めた歌が収められていた集があったと考えられています。これらは「万葉集」の大きな柱として、その要所要所に収められていると言われます。また、『書紀』には、それ以前の文書の所在が記されているようですが、残念ながら残っておりません。 以上、『萬葉集』の世界を視覚障害者にも知っていただいて、言語生活の厚みを養っていただきたいと願って止みません。 |
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