「うか」087 連載初回へ トップページへ | ||
わたくしごと 木村多恵子 |
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わたしが小学校2、3年のころのことである。上級生のお姉さん方が、竹の編み棒2本、あるいは4本を使って、毛糸の編み物をしているのが羨ましかった。最上級生の中にはカーディガンを編んでいる人もいた。「教えて」と頼んでも、誰もいい返事はせず、「4年生になったら習えるわよ」とにべもない。他のことはともかく、編み物を習いたいばかりに早く4年生になりたいと思った。 あるとき、1人の上級生が新しい毛糸を買ってきて、「編み物やりたい?」とわたしに聞いた。もちろん「はい!」というと、「それなら編み物を始める大事な最初のことをやってみる?」という。「はい!」とわたしは続けた。こうして彼女は、わたしが思いもかけないことをはじめた。「さあ両手を広げて前に出して。編み物をするための大事な準備よ。わたしのお手伝いね」といってわたしの両手に大きな毛糸の輪を掛け、その輪の糸口を探し出して、クルクルと毛糸の手鞠を作り始めた。最初は手を動かさずにいたわたしだったが、糸がほぐれてゆく自然な動きに合わせて両手をソロリソロリと動かして、玉を作りやすいように左右に小さな弧を描くように動かした。「そうそう、うまいうまい、だんだん巻きやすくなったわ。じょうずじょうず」と褒められてうれしくなった。ふわふわの手まりを見せていただいたとき、「玉を作るのは難しい?」と聞くと、「そうねえ、巻き方によっては、毛糸が堅くなっちゃうの。糸が死んじゃわないように柔らかく、ふわっと巻くのは、慣れるまで大変ね。あんまり柔らかすぎると、毛糸の玉が崩れて、編むときに、自然にほぐれていかないで、柔らかく巻きすぎたところがバサっと糸が束になって外れちゃうの、これはとっても編み辛いし、失敗すると毛糸が絡まってしまうの。毛糸がすんなりほぐれると、編み目が平均して柔らかくきれいに編めるの」、「わたしもいつか手まりを作れる?」「そうね、いつかきっとやれるようになるわ。糸かけがじょうずになって、本当に編み物がやれるようになったら、玉の堅さがどんなに大事か分かるからね」と言った。 この後彼女は、実際の編み方についてはなんにも教えてはくれなかったが、なにをするにも下準備が必要だということを教えてくれた。 こうしてわたしの糸かけは上級生たちに重宝がられるようになった。 夏休みに入って、寮から家に帰り、母に、糸かけをしていることを話すと、母が「じゃあお母さんの手伝いもしてくれる?」という。「え?お母さんも編み物するの?」とわたしは驚いて言った。すると「編み物はしないけれど、縫い物をするのに糸を巻きたいの」という。早速木綿糸を手に掛けると、毛糸より輪の大きさが小さく、わたしの手の広げ加減は楽だった。だが毛糸と違って木綿糸はなかなか減っていかない。それでもとうとう母は、ボール紙の糸巻きにほどよく巻き取って、まだ半分近く残っている綛(かせ)をわたしの手から外して「ありがとう、とっても助かったわ」といった。「お母さん、何時もは誰が糸かけをしているの?」と姉や兄たちのことを思い浮かべながら聞くと、「わたしの足に掛けて1人で巻いているの」という。わたしは息を飲んだ。びっくりするとこんな風に息ができないのだという経験をしたのもこのときが初めてだったと思う。両手を左右に小さな輪をかくようにするだけでも大変なのに、その輪を足に掛けて自分で糸を巻く。「何時も誰もいないときにやるからね」と母は当然のように言ったが、それだけ、「ありがとう助かったわ」の言葉から、その苦労がわたしにも分かった。「お母さん、これからはわたしが糸かけをするから、わたしがお休みになって帰って来るのを待っていてね」。それがやっと母をねぎらえる言葉だった。「そうするわ」と母は言ったが、後で考えれば、年に、春、夏、冬休みしか帰らないわたしを待っているだけでは足りなかったのだが、子供のわたしは母を喜ばせることができた満足感で一杯だった。 今日ではほとんど綛になった糸は減って、機械できれいに巻かれた、手まり型ではない巻き方の束の中心から糸口を引き出して、編みはじめられるように作られているが、当時は木綿糸も毛糸も、ほとんどこんな風に糸は綛になっていた。わたしが知っているのはその当時も、絹糸はボール紙の糸巻きに巻かれて売っていた。 編み物の手ほどきの序章はこんな形ではじまった。 さて、実際の編み物なのだが、どんなに上級生たちに頼んでも、うんとは言ってくれなかった。何度も頼むわたしにあきれて1人が、「じゃあ内緒よ、最初の目の作り方を教えてあげる」と言って1本の竹針と彼女の余り糸を分けてくれて、毛糸の編み出しの「目」の作り方を教えてくれた。 2本の編み針を1本のように揃えて作った「目」は、すぐ編み針に一杯になった。 すると、「作った目の数を数えなさい。これは編み物をするのにとても大切なことだからね」と言われた。この「目」を数えるのは、作り目がきつくて動き辛く苦労した。1本だけ棒を抜くと、「目」は動いて数えやすくなった。 今度は「目」が掛かっている棒を左手に持ち、空っぽのの棒を右に持って、左の棒から右の棒へ1目ずつ移しなさい」という。 これは1本の棒に掛かっている目の輪の手前から、右手の棒をさして、1目ずつ右手の棒に移していくのだ。 次は、「棒から目を外して、その目を壊さないように、糸を捻(ねじ)らないように気をつけて拾って、元通りに掛けなさい、目を解いて新しく目を作ってはだめよ、最初は1目で練習、次は2目というようにやってごらんなさい。これは編んでいるときに、目を落としてしまったときに、その目を拾えるようにするためだからね」と言われた。実際にこれは難題だった。拾った目を見てもらうと、いつも糸がねじれていると言われる。何度も挑戦したが、悲鳴をあげた。外した目をそっくりきれいに拾うのは難しく、新しく全部目を作り直して何度も繰り返したが、合格はとうとうできなかった。 「これができるのはとても難しいけれど、実際に編んでいけば、作り目を拾うよりはずっと楽に拾えるようになるから心配しなくて大丈夫、ただそれだけ大変だから、編むときは目を落とさないように気をつけること」としっかり忠告された。 4年生の最初の編み物の時間はワクワク!もちろん「目」の作り方を知っているとは言えない。でも目の作り方は「よくわかるわね、上手」と編み物の先生に言われてすんなりクリアー。第1日目は表編みを教わった。これは意外に分かりやすかった。左手に持つ棒の目の輪に、右手の棒の先を入れて糸を掛けて、その輪の中から、掛けた糸を引き抜いて右の棒に移すのである。なんだかドキドキする喜び。 週1度の授業なので、表編みだけのガーター編みは、40目のものが20センチくらい編み上がって次ぎの週に持ってゆくことができた。 次は滑り目を教わり、表編みと滑り目を交互に編むと袋編みになることを教わった。「12目を作って袋編みを150センチ編みなさい」と言われた。これは腰紐としてちょうどよいのだ。 暫くの間は、ごく慎重に編んでいたせいもあって、なんのトラブルもなかったが、ある日、袋状になっていなければならないはずの編み後が、どこかで目がくっついていることに気がついた。慌てて先生に見ていただくと、滑り目をするところを表編みにしてしまったからだという。先生は10センチほどを解いて直してくださった。だが、慣れてきたのと不注意とでまたも失敗した。今度は、最初に「目」の作り方を教えてもらった人に頼んだ。また気を取り直して編む。あーあ!またまた目はくっついてしまった。今度は1目1目解いては棒に掛けることを繰り返し、2、3時間かかって自分で直した。とうとう150センチの 紐はできあがった。 今度は裏編みを教わり、藤編み、浮き菱編み(うきびしあみ)、花菱編みなどの模様編みを沢山教わった。 中学になって、「カーディガンを編みなさい」と言われたのはたまらなくうれしかった。裾のゴム編みから、身頃、袖と編み上げ、脇や袖下を接(は)ぎ、身頃と袖を接ぎ合わせるのは、息を詰めるような作業だった。 襟を編むところで、わたしは転校することになって、この教材の毛糸は学校のものであったので、編み物の先生に未完成のままお返ししなければならなかった。 転校してからも、わたしの編み物生活は細々ながら続いた。編み物を習う課程は、多くの人が似たような経過を辿ると思うが、その最初の段階で、編み物と直接関わるのではないけれど、わたしは、もう1つ大きな衝撃を受けた。糸掛けを教えてくれた人が、言ったのだ。「あなたが着ている洋服も着物も、みんなこの毛糸よりずーっと細い糸でできているのよ。機織り姫の織女のお話を知っているでしょ?あの機織りは、細い糸を織って布にする仕事なの。縫い糸があるでしょ?あの糸を、編み棒ではないけれど、もっと細い道具を使って布を作るの。その布を切ってスカートやブラウスを作るのよ」という。あんな細い糸が布になる?毛糸の中細を使って編むのも大変そうなのに、あんな細い糸を織って布にする?「本当は、この毛糸も羊の毛を刈って綺麗に消毒したり太さを揃えたり、色を染めたり、一杯仕事があって、わたしたちが使えるようになるには、いろいろな人がお仕事をしているの」 小学2、3年のわたしはただおどろくばかりであった。 そして驚きはさらに続いた。8月のお盆に父の実家へ行ったときのことである。寝ていると、雨が降るような音がする。「あれ何の音?」と叔母に聞くと、「お蚕さんが桑の葉を食べているの、お蚕は糸を作る虫なの」、それからわたしに分かる程度に蚕が糸を作る課程を話してくれた。え?え?え?「触ってもいい?」、叔母は蚕棚の側へ連れて行ってくれた。このグニャグニャした虫が絹糸を作る?驚きながらも桑の葉を食べている蚕を、手に取ったり戻したりして遊びながら考えた。桑の葉の減りが早くなるごとに蚕はどんどん大きくなってゆく。叔母は、藁で、繭が置かれる波形のものを沢山編んでいる。8月の終わりになれば、蚕は桑を食べなくなり、蚕の口から糸を出して繭を作り、糸を出しきった蚕は繭を残して死んで蛹になるという。(わたしが覚えているのは怪しいかもしれないが?)、「そういうこと、みんな見られるからもっと沢山泊まっていきなさい」と叔母は誘ってくれた。わたしの眼は毎日不思議さにまんまるになっていたのだろう。もう少しでわたしは母と叔母におねだりするところであった。ご飯を食べられなくてもいい、全てを見られなくても、臭いやみんなの動きや言葉からなにかを知ることもできるかもしれない。でも、わたしには触ることはできないのだ。それに本能的に少し怖いような気もした。やっぱり1人で残っていたい、迷いに迷った。けれども小さなわたしでも叔母の忙しさを想像することができた。大好きな叔母さんの邪魔をしてはいけないということと、母の困惑を推し量れたことの方が自然であろう。しかし、糸を、その口から出すという現場に、こんなに近く見られる機会を逃したことも残念でならない。わたしが大きくなってからは、もっと叔母への遠慮が働いて、結果的には「蚕の神秘」を見ることはできなかった。しかも叔母は数年後に病死してしまったのである。 今、わたしはあの夏の日の、手の感触、わたしの手から逃れて早く桑の葉にとりつきたがっていた、蚕のモヤモヤ足を懐かしく、思い出している。 2011年8月2日(火) |
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