「うか」088 連載初回へ トップページへ | ||
わたくしごと 木村多恵子 |
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前回、羽化87号(2011年8月発行)でわたしは、自分の編み物体験や、蚕にまつわる子供の頃の思い出を書かせていただいた。何故このような事柄に心が動いたかについて、もう少し続けさせていただきたい。 わたしは結婚してからも編み物を続けていた。かぎ針にも挑戦し、オリムパスの18番という細いレース糸を使ってみたが、わたしの指先ではきれいに目を拾うことができなかったので、方眼編みで小さなテーブルセンターを編んだが、物足りない。同じメーカーの40番を使うと、目をすくい取ることはできたが、全体として糸が太すぎてゴロついた感じが好きになれず、手頃な素材はないものかと探していた。 そんなあるとき、行きつけのデパートの手芸品コーナーの方が、「新しい夏糸が入りました。これなら目もはっきり出るので、編みやすいのでは?」と、ハマナカシルキのサマーヤーンの中細を紹介してくださった。 まず試しに1個だけ買って帰り編んでみると、なるほど、大きめの模様にすればかぎ針でカーデガンも編めそうだ。早速そのための糸を買ってきた。それからいろいろな模様を楽しみながら何枚か編んだ。 あるとき、この糸を教えてくださった方が、「今度はスカートを編んでは?」と勧めてくださった。かぎ針で長編み一段と細(こま)編み一段を交互に編むと、すっきりして、しかも編み目も拾いやすい。裏地も付けなくても大丈夫というので、安心して編んだ。履き心地もカッチリとして気持ちがいい。増し目で作ったフレヤーもきれいに出ているという。すっかりうれしくなって、これも何枚も編んだ。 糸の太さ、何本取りにするか、糸の縒り方加減などが編みよさや、編み上がりの風合いを決めることも実感として分かってきた。そして当然色と色のコントラストも大切なことなので、色選びは売り場のいつもの方のアドバイスを受けた。 お勝手仕事をしながらラジオを聞いていたときのことである。 「樹や花には勢いが盛んなときと、盛りを過ぎて休眠状態に入って、次の年のための準備をしているときとがある。それはわたしたちの目には見えないところで、樹の内部で行われている。」という話をしている。わたしは耳をそばだてた。放送の終わりで、志村ふくみさんという女性、染織家、織りも手がけている人だと分かった。それから、志村さんの本を探し、読んでいくと素晴らしい話がいっぱい出てくる。 たとえば、梅の木の場合、梅の花が咲き誇る時期ではなく、枝がほんのり赤みを帯び、蕾ができはじめる頃の枝を集めて、その枝を釜一杯に入れて煮出すと、煮上がった液は底光りのする青みがかった琥珀色になる。その液に白糸を漬けると、糸は青みの淡い琥珀色に染まる。一方、集めた枝の大半は媒染用に焼いて灰を作る。その灰に熱湯を注ぎ、その上澄み液を取る。その灰液の中に、先ほど釜で枝を煮出して作った液に漬けて染めた糸を漬けると、次第に青みは消え、紅が差すような琥珀色に定着する。梅には梅の、桜には桜の媒染が最もよいのだと志村さんは書いている。これに対して、満開の花の時期の枝からは、同じような工程で糸を染めても、もう木の勢いは衰えて、美しい色にはならず、色あせたものになってしまう。 わたしにとっては、織りも、染めもまったく想像の世界でしかわからないのだけれど、草木染めの話、織物の話に興味はぐんぐん引き寄せられた。 どんな植物の、どの部分を、どの地域で、どの時期に採取するか。もっと細かく言えば、雨上がりがよいか、晴天続きがよいか、朝か、夕方かも含めて入念にその頃合いをはかり、採取したあとの処理方法や保存法にも注意をはらい、媒染剤としてなにを使えば、どんな色が染められるか。 織りについても、地色の縦糸と横糸の基本の色を決める。織り込む横糸の何本かに一本、異なる色を入れることで、その布が生きも死にもする話。横糸は一色か、多色か同系色か反対色か、織り込む糸の太さをわざと変えるなど、夢の中にまで糸と色とが追いかけてくるのだと彼女は云う。 植物で染めた布は山や野原や川といった自然の中にポンと置いても、周囲に溶け込んで違和感はないという。 わたしは和服を着るのが好きである。春、夏、冬の休暇、とくにお正月は着物を着るのが楽しみであった。母はいろいろ工面して、一枚の着物を姉からわたしへと縫い変えていた。わたしがとくにお気に入りだったのは、薄緑色の絽(ろ)の着物で、しゃっきりした感触も好きであった。その絽はお端折(はしょ)りもなくなるほど毎年着ていたが、ある夏の終わりに、母が「これはもうなににも作り変えられないわねえ」と残念そうに云っていた。ところがお正月に、この絽をおひふとして縫い変えてくれたのだ。夏の絽をお正月に着るのは季節の「着合わせ違反」ではあるが、どのみち外出着として着るのではないので、母はおひふにしたのである。〈ひふ〉というのは袂の無い道行コートといおうか。母はその冬、新しい着物を縫ってくれたが、羽織まで作るには余裕がなく、仕方なくこの絽で間に合わせたのである。けれどもわたしは新しい着物より、このおひふのほうを喜んだので、母は思いがけないわたしの反応に驚き、ほっとしたのだと、かなりあとになって、この絽について母と話したとき、懐かしそうに話していた。 その後もわたしの各地方の、紬や大島や縮みなどにまつわる本をあれこれ読んでいた。横幅36センチほどのところに亀甲絣(きっこうがすり)を30から60模様を織り込む機織名手の話も読んで驚いていた。 デパートで開かれた、「東京の伝統工芸展」で、八王子や東村山の機織りの実践コーナーがあり、立機(たちばた)を見せていただいた。「イザリ機(ばた)もありますか?」とお聞きすると、「もうイザリをなさる方はいらっしゃらなくなりました」と仰った。「機を織ってごらんになりませんか?」とやさしい女性が言ってくださったが、さすがのわたしも、長(おさ)をほんの少し動かすことさえ控えた。やってみたいのはやまやまでうずうずしていたけれど、後で1本の糸を反故すことがどんなに厄介なことか検討がつくからである。 この工芸展でわたしが魅せられたのは、玉織(たまお)りであった。手触りの柔らかなやさしさに満ちた、それでいて張りのある反物である。この織物を、仕立ててこの身に纏ったなら、どんなに着心地よく、わたし自身の中からやさしさを引き出してもらえるのではないかと思われるほどのしなやかさであった。もちろんわたしにはとてもとても手を出せるようなお値段ではなかったが、こういうものに触れられたことだけでも満ち足りた思いだった。そして、わたしに「機織りをやってごらんなさい」と声をかけてくださった、あの上品で、しかも親しげに話しかけてくださった涼やかな声も忘れることができない。 そして、鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』を読んでいたときの衝撃! 小千谷縮(おじやちじみ)といえば、夏着として最高の着物である。鈴木牧之はこの縮みを織る女性の逸話を書いている。 刺草科の多年草の苧(からむし)が2メートル程度に育ったら、茎を採取し、繊維を取って細く裁いて、それを縒り合わせる。このことを「苧績(おうみ)」という。この苧績した糸で織った布を灰汁(あく)に漬けて水洗いし、雪上に晒して光沢を出す。苧はごく上品で、普通は麻を使う。この苧や麻の繊維が強く縒られ、その縒りが戻ることによって〈縮み〉となり、夏の涼感を作り出すのである。 『北越雪譜』で紹介されている17、8歳の娘が、この苧績から織まで端正込めて全て一人でやりおおせた。さて、晒屋から母親が一反の白布を持ち帰った。娘は張り詰めた思いで開いて見ると、なんと銭の大きさほどの浸(し)みができていた。娘は、この愛おしい縮みを顔に押し当て、母親の膝に泣き崩れた。以後彼女は家の中を歩き回り、意味不明な言葉を呟き続けた。親も近所のものも、その心のうちを思いやってはいるものの、どうすることもできなかったという悲惨な話である。 成人が着る1着分の1反(およそ横36センチ、縦10メートル)の反物を織るには、苧績からはじまって布として仕上げるには、織りの部分だけでも2万4484度も手を動かさなければならないのである。 精魂込めて織った反物が灰汁に漬けられた段階か、恐らく雪上で晒している間に悲劇が起きてしまったのであろう。その「しみ」を最初に見つけた人の驚愕は大変なものであったであろう。まして不可抗力とはいえ、実際に「しみ」をつけてしまった張本人がその失策に気づいたとしたら、その苦悩もはかりしれないと思う。縮みにかかわる人たちは、どの工程に携わっていても、皆手塩にかけて辛苦していることを充分承知しているからである。 気づいているか、気づかぬふりをするかはともかく、この娘に負い目を背負って生涯を過ごした人もいるにちがいない。 事柄の大小、形は違いながらも、多くの人はそんな胸の痛みをひとつぐらいは心に秘めているのではないだろうか? 2011年9月21日(木) |
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