「うか」084 連載初回へ  トップページへ

               わたくしごと
                                   木村多恵子
 めずらしく母校の同窓会報を読んでいた。目次の中から懐かしい友や後輩の名前を見つけ、年経たことを改めて実感した。その中のある記事が特に気にかかり、読んでみると、1953年5月25日に行われた母校での式典にまつわる話であった。
 読み進めてゆくうちに、この或1日のこと、その日わたしが着ていた洋服のこと、当時のわたし自身の生活ぶりまでがよみがえってきた。
 その式典とは、食堂の落成式である。
 それまでの食堂は、生徒おおよそ6、70人が二度に分かれて食事をし、しかも長椅子と長テーブルを使うので、隣の人の肘と肘がぶつかり合い、ともするとその狭さのために汁ものなどうっかり零すことさえあった。
 ところがこの新食堂は一度に125人は入れる大きなもので、しかも、一つのテーブルを4人でゆったり使えるという、それまでには考えられないほど贅沢な広さだった。
 この食堂建設にどのくらいの日数がかかったか覚えてはいないけれど、大勢のおじさんたちが毎日学院に来て仕事をしていたのをよく覚えている。その工事のために、この道は通ってはいけない、この辺りへ入ってはいけないと職員から注意を受けていたからである。
 新食堂を寄贈してくださった方は、横浜の船会社の支店長として、郷里のサンフランシスコから横浜に移り住んでいた、ジョージ・ダンジーさんである。ダンジーさんは、横浜訓盲学院のことを知り、盲児たちのためになにかしようと、友人知人に呼びかけて寄付を集めはじめた。ところが、1951年ダンジーさんは40代という若さで急死してしまった。友人たちはダンジーさんの志を受け継いで、「ダンジー委員会」を立ち上げ、8千ドル(当時の日本円で約300万円)を集め、学院に食堂(名称、ダンジー・メモリアル・ホール)を寄付してくださったのである。
 その落成式が1953(昭和28)年5月25日(月)で、この日は風もない、穏やかな、それはそれは爽やかなよいお天気であった。
 式の中でわたしが鮮明に記憶していることは、亡くなられたダンジーさんの奥さんと、10歳前後のお嬢さんがサンフランシスコから来られて列席されていたことである。ダンジーさんを亡くして奥さんもお嬢さんもどんなに悲しいだろうと、子供心に涙を流し、その涙がお日様の光ににじんでいたことである。お嬢さんがわたしと同じ年頃だったこともあって余計悲しかったのだ。
 ところで会報に記されていた内容はわたしを驚かせた。2010年7月21日、学院の事務長がメールチェックをしていると、その中に、かのダンジーさんの姪に当たるサラ・ウッダム・ウィリアムスさんからの送信があったのである。それによると生前、ダンジーさんは、両親や家族に、学院の話を常にしていた。ご両親や兄弟は何時か学院を訪ねたいと思っていたが、その後約50年余を過ぎて、兄弟方はその願いを果たされぬまま亡くなってしまった。ダンジーファミリーは、彼が残した、学院の思い出が詰まったスクラップブックを大切に保存しており、今は、サラ・ウッダムさんが持っている。今年の夏日本へ行く機会が出来たので、ファミリーの代表として、是非学院を訪問したい、という内容であった。
 こうして2010年8月25日の午前、サラ・ウッダム・ウィリアムスさんと、そのご子息のブラクストンさんが学院を訪れ、学院長はじめ主立った人々が大歓迎をしたという話である。
 母校にはこうした人々の真心によって立てられた建物が幾つもあり、それらの建物には直接関わってくださった方の名前が付けられ、絶えずその名を口にすることで、記念として記憶し続けている。
 当然そうした善意の積み重ねのことを説明され、皆さんに感謝しなさいと教えられてきた。けれども、年を重ねたこのごろになって、改めて多くの方々の援助を受け、助けられ、育てられてきたのだとしみじみ思う。

 全寮制で、4、5歳から20歳くらいまで(最大90名くらいだろうか?)の、大半は全盲の子供が幾つもの寮に別れて暮らしていた。
 このダンジーさんの記事を読んで、あの頃のわたしは1人でいることが好きだったことを思い出した。
 この学院の大まかな配置図は、山を切り開いて作られた所なので、横幅9尺(約3メートル弱)の急勾配の坂が、敷地のほぼ中央に位置し、その坂が真っ直ぐ谷底へ向かってはしっており、その両側の傾斜地を整地して、講堂をはじめ、大小の教職員住宅、男女別の寮が4、5軒、お風呂場、それに小さなあずま屋が幾つも点在している。
 その他そうした幾つもの建物と建物を繋ぐための小さな坂や階段が、中央の急勾配の坂とは別に、敷地の外側に近いところに作られている。
 たいていの人はこの中央の、「9尺坂」を使って建物から他の建物へと移動していた。わたしも友達と一緒のときはいつもこの「9尺」を使っていた。けれども1人の時や、日曜の自由時間には、この「9尺」以外のちょっと険しい階段や坂道を一人でうろうろと歩いていた。当時わたしはほんの少し見えていたので、上の建物と下の建物を隔てる土手や、それを繋ぐ通路としての坂や階段際に咲いている花を見つけては立ち止まって、白や赤、黄色の花をじっと見つめていた。わたしの視力では花の形は分からない。ただ目立つ色がわたしを引きつけ、ぼんやりとなにを思うともなく見とれては移動し、そこここに点在するあずま屋に、そのときそのときで誘われるまま、わたしたち子供が使ってよいあずま屋を移動して、やはり1人ぼんやり過ごしていた。このあずま屋は全部お花の名前が付けられていたので、「はぎにいるからね」、「ききょうで待っているからね」と言うだけで互いに通じた。わたしは読みたい本を持って気ままに好きなあずま屋を選んで、木のいすとテーブルだけの場所、そして季節によっては小鳥の鳴き声を聞きながらひとり読んでいた。今思えばあのころもっと沢山読書に費やしていればよかったと思う。
 わたしは、自分の寮の掃除の時間になると、かならず寮へ戻る。そして、「どこへ行ってたの?」と聞かれても、隠す気はなく、「さくらにいた」、「つつじにいた」と言うので、寮の先生は特別心配していなかった。あのころわたしの年齢と近い人はいなかったので、寮の仲間とは離れていることが多く、1人、日を過ごしている方が気楽だった。そんなふうなので、ひとつのあずま屋をひとりで掃除をするのは大好きだったし、雑巾がけをするためのお湯を取り替えるために、お風呂場から何回もお風呂の残り湯を運んでくることも、寮のお掃除の結果出るゴミを、学院のごみ集積場へ捨てに行くことも気軽に進んでやっていた。
 その後年齢も増し、転校し、環境も変わり、年頃になって、ひとりの人を愛し、結婚し、わたしのできる限りを尽くして神のもとへ見送り、今また1人暮らしになってしまった。そんな悲しみを抱いている日々、自宅に引きこもっていた。けれども徐々に目と心が外へ向いたとき、わたしは、小石川植物園や目黒にある自然教育園、神代植物園、等々力(とどろき)渓谷など、静かな所へ、本当にただひとりで行きたいと思った。もちろんそれは適わぬことだったが!
 わたしが今、大自然ではないまでも手近にある小さい自然、お花や木々の多い公園へ行くのが好きなのは、子供の頃の体験がかなり影響していると思う。
 花と、特別の音楽と、愛する人が今も心に居ることで、わたしの人生は幸せだと今は満足している。
                                   2011年1月31日 月曜
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