「うか」111 連載初回へ トップページへ | ||
わたくしごと 木村多恵子 |
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「あれ?ひとりで10脚?」 ある日、疲れたわたしは夕食の後片付けもせずにぼんやりと日常のあれこれのことを考えていた。 すると突然、1人暮らしのわたしが10脚もの椅子を所有していることに気づいて、自分でも驚くほどすっとんきょうな声を出していた。 夫と2人でこのアパートに越してきた15年前まで、椅子など全く縁のない暮らしをしていた。 なにしろ、6畳一間に僅かな板の間があり、そこには最小限のスペースでトイレと流しがあり、あとは冷蔵庫と洗濯機とガス台を置けるだけだったのだ。ありがたいことに、今思い返してもその暮らしぶりに不満を感じたことはない。 ただ、家主から、古びたこのアパートを壊して建て直すという理由で立ち退きを言い渡されて、慌てて家探しをし、幸運にも現在の所へ越して来られたのである。 下見に来たわたしたちの驚きは、これまでとは比べものにならない広さであった。一緒に見に来た我が姉親子の、扉を開けての第一声は「明るい!」と「広い!」の同時の叫びだった。 これまではビルに囲まれた路地奥の、さして陽の当たらない所だったし、新しいところは9階で、ワンフロワ形式で、建具を上手に使えば、6畳2間、4畳半一間、4畳半強のダイニングキッチン?そして今までには無かったお風呂! ふふ?言うまでもなくトイレットも! 今でも姉親子の驚きの声を思い出すだけでわたしは笑えてくる。 当のわたしたちはこれまでの暗さも狭さもちっとも苦にしていなかったのだから。 もっとも、少しは視力があった夫は、わたしとは違って、薄暗さは不便だったと思う。 さて、引っ越しの手順である。当然今まで暮らしていた所で使っていたものを捨てたものは殆ど無く、わたし1人で近所のなじみのスーパーからダンボールを幾つもいただいて来て、本を詰め、食器その他の日常雑貨を詰めた。衣類も、洋服箪笥に掛けてあるものだけはきちんと畳んでダンボールに詰めた。 次の段階、というより、1つの箱に詰め終えては、点字で通し番号と、おおよその中身の内容メモを書いて、1つ1つ箱に貼っていった。 次はこのダンボールの山を何処へ置く? これがまた恵まれたことに、同じアパートにいらした隣のお部屋の方はすでに家移りをされているので、その空き部屋を自由に使っていいと家主さんが言ってくださったのだ。 わたしは番号順にお隣さんの部屋に運んだ。 ここまでは時間さえかければわたし1人でできる作業であった。 このようにわたしができる範囲で準備をしている間に、姪が引っ越し先の見取り図を、平板と桟木(さんぎ)を使って、家の中の間取りの実態図を作って来てくれた。 「おばちゃん?これで部屋の形が分かる?これを見ながら、洋服箪笥はどこの部屋に、どの向きで置くかよく考えてね。そしたらわたしたちが荷物を運んだとき、おばちゃんの希望通りに置いて来られるからね」と言ってくれた。 わたしと夫は、家が空っぽのうちに掃除道具を抱えて何回も通った。 そして引っ越し全般を引き受けてくれた姪夫婦がバリバリ働いてくれた。 まずは、洋服箪笥、整理箪笥、食器戸棚、冷蔵庫、洗濯機などの大物である。 衣類家具の引き出しは洋服を入れたまま、引き出しを抜き取り、空の家具をトラックに積んでから、一端外した引き出しをトラックの上に乗せた家具に元通りに納めてくれた。 冷蔵庫や食器戸棚は当然すでに空にしてある。 そのほかわたしが詰め込んだいくつものダンボールも積み込んだ。 わたしたちが最後の一晩を過ごすための布団を省いたもの一切はこうして姪夫婦によって新しい家へと出発した。 姪たちのきめ細かい気配りのお陰で、予め相談したとはいえ、引っ越し先にそれぞれあるべき場所にセットしてくれたのはありがたかった。 さいごの布団とわたしたち2人を運んでくれたのは、姉が運転する車であった。そして姉とわたしは正式に役所に「入居届け」をしに行き、書類上も完了した。 荷物全てが運びこまれてはみたものの、これまで小さく収まっていたわたしたちは、落ち着き場所、よりどころのない頼りなさで困った。 姉親子が来ても「うーん」とうなっていた。 そこで食卓用セットを探しに行こうと姉親子がわたしを連れ出した。 買い物上手な姪が、わたしたちに手頃な羽出しテーブルと折り畳み椅子4脚セットを探してくれた。 姪は店に展示してある見本を使って触らせながら、組み立て椅子を使わないときはテーブルの下に収納出来ること、羽だし板の扱い方(テーブルを3通りの大きさに変えられること)など実際に、わたしにやらせて納得させてくれた。 「おばちゃん?これは組み立て料金付きの配達を頼んだから、おばちゃんたちはなにも心配しなくていいのよ。もう支払いも済んだから後はお約束の日におばちゃんたちが家に居ること。それだけでいいからね。ただね、普段は組み立て椅子は不安定で危ないから、わたしが今度おじちゃんとおばちゃんが普段使う椅子2つを持ってくるからそれを使ってね。おばちゃんの好きな木組みだけどもう古いから、それが壊れたら、そのときまた考えましょう」 と懇切丁寧に話してくれた。 姪の夫は風呂周りのスノコ、衣類や小間物を置く棚、玄関とダイニングとの間仕切り用アコーディオンカーテンなど必要なものを、できるだけ木を使って作ってくれた。 彼が大工仕事をしているところを通りかかった同じフロワの方が「おたく、ここのせがれさん?」と聞いていた。彼はテレながら「いいえ、ただ2人がこれから暮らしていきいいようにと思って」とだけぼそっと言っているのを聞き、その優しさにわたしは胸がキューンとなり涙がこぼれそうになった。 話は椅子のことからすっかりそれてしまったが、6脚の椅子は食卓周辺に置かれ、たちどころに居場所が整えられた。 事実親類でなく、知人が我が家の様子を見に引っ越し後半月も経たぬうちに来て、この6脚全部を1度に使うことができた。我が家の椅子の数に合わせた訳ではないのに、この椅子たちの活躍の幸先の良さをわたしは喜んでいた。 第7脚目は、姉の家に以前からあったものが、わたしのお気に入りで、チャンスがあれば欲しいと思っていた。今度の引っ越しを機に、「もしや?」と姉夫婦におねだりしたら兄が直ぐ「ああ、持って行っていいよ」と言い、続いて姉もうれしそうに「今度わたしが持って行くわね」と言ってくれたものである。これは素朴なもので箪笥の側に置いた。 第8脚目はわたしの友人が「一男さん(我が夫)は畳に座っているだけでは疲れるから、たまには椅子に変えてもいいと思うの。わたしクッションも付けてもう注文して、明後日届くことにしちゃったけど、たえちゃんが家にいなかったら届け日を変えるけど?…」と言った。 わたしは恐縮しながら感謝して受けた。 そして豪勢な肘掛け付き、リクライニング付の椅子が届けられた。 このようにして揃った8脚の椅子は、夫とわたしと、この家で5年間大事に使ってきた。 とくに普段の食卓用椅子は、これまで長いこと使われていたこともあって、だんだん木のかみ合わせが削れてきて、始終「とんとん」と手で打ち込まないと外れそうになり始めた。それでもわたしたちは大事に使い続けた。 けれども、その2脚の椅子が壊滅する前に夫の病は重くなり、2008年にわたしを残して逝ってしまった。 一人になってしまったわたしは、いつ分解して怪我をしないとも限らない、怪しげなものを9年もの間手を加えながら2脚とも使い続けた。 そして最近、大事な友人が、突然引っ越しをすると言う。しかも引っ越し先は今より狭くなるので、余分になった椅子をなんとかしたい、「捨てるには惜しいし…かと言って古くなったものを誰かに使ってとは言えないし…」と言う。「う、う、ううん?…本当に捨てるの?」 わたしはいじましいことを考えた。そして思い切って「もしほんとに捨てるのならわたしにくださる?」と言った。 彼女もわたしの哀れな椅子を知り尽くしているので、このような言い方をすればわたしが欲しい、と言えるだろうと思いやってくださったのだと思う。 話はちゃんちゃんとキマリ、ある方の助けを借りて、早速9、10脚目の我が家への移動となった。 この9、10脚は、形はまるで異なるが、どちらも貫禄のある最高級の木工家具の一級品である。一つは肘掛けも立派で、背もたれがたっぷり大きく、頭まである、堂々としたもので来客用だ。もう一つは、丸みのあるもので、肘掛けもあり、背もたれの高さは34、5センチくらいで、これはむしろ立ったり座ったりするのに動きやすく、わたしの日常使いとした。 わたしの満足度は充分である。 他人(ひと)は、「それでは危なっかしい二つの椅子は捨てられたのですね?」と言うかもしれない。いえいえ、この2つの椅子には思い出が一番詰まっている。 どうして捨てられよう? 痛々しい椅子に埋木(うめき)をしてくださったり、木工用接着剤を使って補強してくださった方がいる。 わたし自身でも、ひもやガムテープを使って、見た目は哀れでも、分解を免れるように努力もした。なにより大切な人の思いが山ほど詰まっているのだ。 この2つのうちの1つは、パソコンを使う度に食卓から運んでいたのだが、これで居場所がかなり定まった。いいえ、もっと活躍している。 電気のカサやカーテンレールなど高い所を拭くときにもこの椅子の方が持ち運びが楽なのである。 もう1脚は、座面には米びつを、椅子の下には水を置いて、これはこれで台所が整理され、大きな役割を果たしてくれている。 「ひとりで10脚」は今のわたしには無駄がない。 欲張り?執着? いいえ、食卓下の椅子を除いてどれも豊かな個性を持ったこれらの椅子に座って、あの人との語らい、この人とのお話、思い出を詰め込んだこれらの椅子たち。みんなみんなありがとう。 2017年6月21日 水曜 |
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