「うか」112 連載初回へ  トップページへ
             わたくしごと
                                   木村多恵子

 お掃除をするのは好きだ。(本当にそうかな?)
 大まかに言えばやはり好きと言えるだろう。身体を動かし、あちこち角が剥がれてしまった安物家具とはいえ、長年使ってきたものを拭いたりするのは、気軽に動けるので気持ちいい。
 けれども、ガラス磨きは、正直億劫がっている。
 床を拭いている時は、音訳された本を聞きながら、手を動かせるので気に入っている。
 音楽も、本の朗読も聞かずに「何か」を考えながら床拭きをするのも好きなので、たいてい、日に一度は大ざっぱでも床拭きはしている。
 ところが、お掃除というものは何時もの手順通り進んでいるときはいいのだが、時としてとんでもないアクシデントにおそわれ、単なるお掃除が大掃除になってしまうことがある。
 ある日の朝、いつものように床拭きをしていて、さて、後少しだ。冷蔵庫周りと流しに向かって立つ辺りの床面を拭けば終わり…。と最後の段階にきたとき、「え?これなあに?どこから?え?…」、驚いた!何と冷蔵庫の周りは水浸しになって「お池にはまってさあたいへん」状態だ。しかも原因が分からないからなお厄介。なによりこの水を拭き取るほかどうにもならない。うーん、幸い今日は一日家に居られるから中掃除(ちゅうそうじ)になってもかまわない。
 でもどうしてこんなことになったのだろうと考えた。昨夜から今朝にかけて、バケツや鍋をひっくり返した覚えはない。昨日の夜何をしただろう?そうだ、冷蔵庫の中を掃除した。庫内の棚を抜き、ドアポケットを外して洗って、拭いて、元に納めた。冷凍庫のボックスも外して「…?うん?これかなあー!製氷皿を抜くのに少し手間取ったことを思い出した。我が家の冷蔵庫はぎりぎり一杯の狭い所に納めてあるので、ドアを全開にすることができない。その必要があるときは、やっこらさ、 とばかりに冷蔵庫全体を前に引き摺り出さなければならない。
 そうだ、きっとその時製氷皿の氷が溶け出していたのだろう。わたしは早く寝たいばっかりに、さっさとこの仕事を片付けることにしたのだが、その実、やらずもがなのことをしていたようだ。氷が溶け出しているときに、冷蔵庫をやたらに動かしたのだ。しかも、冷蔵庫の電気コードを、下敷きにしてはならないので、コードを辿ってその確認をした。「ああ、だめだめ、挟まっている」と言いながら、また冷蔵庫を動かした。今度は引き摺るだけでなく、冷蔵庫そのものを少しとはいえ持ち上げてコードを自由にしてやらなければいけない。この力仕事は大変なので何時もは注意しているのに、今回はおまけの力が必要だった。この「おまけ」が「どんぐりの池」を作ったのかもしれない。なにはともあれ、ちゃんと納めたはずなのに、今朝はこの騒ぎ。わたしは苦笑いをしながら掃除のやり直しをした。まあ、この程度の水害で済んだからよかったものの、冷蔵庫の周辺は鬼門のようだ。
 この上には、電話の子機やアクティヴスピーカー、時計、ラジオなど所狭しと置いてあり。ちょっとした加減で電話の子機を冷蔵庫の後ろに落としたりすると、これまた大騒ぎ。上に置いてあるものを全部移動させ、冷蔵庫を動かして、その後ろや壁際を探す。ハタキの棒を細いところに差し込んで取れるときは何とも有り難い。だがたいていそんな横着は許されない。 そんな時のおまけのいいところは、冷蔵庫の、周辺掃除ができることだ。
 幸い我が家のフローリングは滑りやすくなっているので、わたしは確実に固定したところに足を付けて踏ん張って全身の力を使って引き摺り出し、納めるときは身体全体で押し込んでいる。
 まあ、これもいつまでできるか分からないけれど、一人でできるのはありがたい。こんなことのために人様をお呼びするのは申しわけないもの。

 お掃除とはなんといろいろなことを考えさせるのだろう。
 グリムもアンデルセンもオトフリート・プロイスラーも主人公に、短時間で、厄介な掃除を一人でやれと命令する。主人公たちはけなげに、必死で始める。やっと部屋の片隅に掃き寄せた小麦粉は、彼、彼女がホッとすると、とたんに、その小麦粉は元のように部屋全体に散らばる。再度やり直しても3回、4回やっても、何時も元の黙阿弥で、一向に綺麗にならない。疲れ果て困り抜いている主人公の元に、誰にも気付かれないように助け手が現れる。物語はこうして始まる。
 わたしは子供の頃どうして同じパターンではじまる物語が多いのか不思議でならなかった。その頃考えたのは、「真面目に根気よくやれば助け手が現われるのかな」ということしか分からなかった。今になっても同じで、現実に毎日の積み重ねが大切なのだ。
 実際このお掃除一つをとっても、この家ではいくら拭いても拭き終わった直ぐその後で、切手や小物を落としてしまって、床を触りながら探すと、悲しいことにこの手に埃が付いてきて、わたしは直前の掃除を疑いたくなる。これは使われている建材の質によるもので仕方がないと今では諦めているが、最初は何回もまた拭き直していた。
 そして改めてグリムやアンデルセンを思い出して妙に納得してしまった。
 お掃除は何時でも何処でも必要なのだ。たとえば日常生活の中で、CD1枚聞くだけでも、CDの掃除からはじまり、掃除で終わる。
 掃除はミクロからマクロまであらゆる全てのところで必要なのだ。
 学校、病院、鉄道などあらゆる公共機関、精密を極める実験室、工場、「フクシマ」「チェルノブイリ」、街、村、山、海、川、砂漠、海底、地底、空、宇宙…。何処をとっても物事が正常に働くには本当の掃除が必要であろう。
                             2017年10月6日 金曜
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